南部藩指定湯治場の湯で癒やされる
東北新幹線二戸駅から車で20分、市街地から離れて国道4号線から馬淵川を渡ると、金田一温泉郷に到着する。かつて「湯田(ゆだ)温泉」とも呼ばれていた由来は、自然に囲まれた田んぼのなかから、ある日、突如として湯が湧き出したことによるという。その歴史は、寛永三年(1626年)に遡る。
南北に蛇行して流れる馬淵川の水系に沿って集落が生まれたこのエリアは、横たわる川と迫る山とに挟まれた平地の少ない限られた土地。人々が知恵を絞って農業を営み、宿場地域でありながらも、農業を軸にした生活を営んできた。
金田一に湧く湯はどれも肌あたりがやさしく、長く浸かりやすい。泉質は、微量の放射線を含む低張性弱アルカリ性単純温泉。もともと10本の源泉があり、現在は大湯、玉の湯、金栄の湯、黎明の湯の4本を恵みとして、6つの温泉宿に加えて、2022年に公民連携でオープンした「カダルテラス金田一」が営まれている。
「金田一温泉は侍たちが合戦で負った傷を癒す、南部藩指定の湯治場でした。源泉の温度は32〜33℃とぬるく、温まってゆっくりするというよりも、合戦で負った傷を癒しに傷口を洗いにくるような温泉だったのでしょう」と教えてくれたのは、1976年(昭和51年)創業の「おぼない旅館」若女将である大建ももこさん。
湯治(温泉治療)が盛んだった南部藩。殿様もよく温泉へ行ったことで知られ、藩士たちも「温泉で湯治をしたいのでひと回り(湯治の日数単位、七日間)おいとまをください」と願い出ると、必ず許可されたのだという。下北の下風呂(しもふろ)温泉から、鶯宿(おうしゅく)まで、どこへの願いであっても「遠すぎるではないか」などと叱られることもなく、医者より温泉の方が効き目があるとさえ言われた当時の説にならって出かけることができたそう。そんななか、当時の湯田温泉にも藩士が多くやって来た年があり、以来、「侍の湯」として知られるようになったのだとか。
南部藩政時代の様子が記された歴史資料には、持病の手当てのため湯治に訪れた藩士の記録が複数残る。例えば、安永八年の一行には、「4月13日 豊巻新兵衛 湿瘡頬に付福岡湯田入湯二廻御暇願之通仰付」とある。「豊巻新兵衛から湿瘡頬のため湯田への湯治のためのお暇願いがあり、許可した」ということと読み取れ、同様の記録がいくつも見られる。金田一の湯の特徴でもある、一度の入浴でも皮膚が滑らかになる感じ。これが、慢性の皮膚病の名医もいなかった当時、皮膚の病によく効くと噂になり、次々と藩士が来るようになったという。
「金田一温泉に来られたら、気の向くままに車で走っていただきたい。観光地として御膳立てされているわけではありませんが、なんにもない田んぼでも、自然に歓迎されているような気がしますよ」と、若女将ももこさんが言う通り、徒歩での散策やシェアサイクルでのサイクリングに適した小さなエリアのなか、地域の人々の飾らない暮らしの風景と、さまざまな農作物が季節ごとに実る田畑が広がっている。
参考文献:『金田一村誌』『別篇二戸歴史物語 別冊第五巻』