夫婦ふたりで守り続ける味
カリっとした食感とともに口のなかに広がる南部小麦の香り。全国的に「せんべい」と聞くと、うるち米やもち米が材料となったものが想像されそうだが、この地域で「せんべい」と言えば、小麦粉を原料とした南部せんべいのこと。太平洋沿岸に吹く冷たく湿った東寄りの風「やませ」の影響で稲作に不向きだったこの地域一帯では古くから小麦粉栽培が盛んで、南部せんべいは旧八戸藩にて伝承されてきたことから、青森と岩手が主な生産地に。現在正式に「南部せんべい」と名乗れるのは、材料に南部小麦を使ったものだけ。
二戸市は、南部せんべいの主要生産地。市内には、それぞれのこだわりとブランドを掲げてせんべいを焼く事業所がいくつもあり、多様な味を展開して、チョコを合わせるなど新たな可能性を探究する企業もあれば、昔ながらの素朴なスタイルで焼き続ける個人店もある。金田一温泉郷のそばにある「藤原せんべい店」もそのひとつ。1962年に店主である藤原秀俊さんの両親が始めた店は、現在は、秀俊さん夫妻の二人三脚で経営され、毎日500~600枚のせんべいを焼く。
店の戸を開けると、あたたかい空気に包まれて妻の恵子さんが迎えてくれる。小さな売り場の隣に小さな焼き場があるのを見て、この温もりは焼き機から発せられる熱なのだと気づく。
「朝5時半に起きて、コンロで炭をおこし、6時半頃に焼き窯に木炭を焚べます。それから小麦粉に塩、重曹、水を混ぜて練って生地をつくり、切り分けた生地に胡麻をつけてどんどん焼く。熱がこもるから、夏場はもう大変です」
額に汗を浮かべながら、秀俊さんは言う。藤原せんべい店のせんべいの原料となる小麦粉は、香り豊かで粉自体に甘みがある岩手県産の南部小麦100%。炭は二戸の名峰・折爪岳の麓で焼いているものを使い、地元素材を生かしてつくられている。焼き機には、「羽根」と呼ばれる鉄製の焼き型が4つ並び、それが8列セットされていて、窯の横についたハンドルを回して焼く。ガス焼きと違い、木炭焼きは温度を一定に調節するのが難しい。それに、一度火を起こすと止められない。そのため、午前中は一気にせんべいを焼き続ける。
秀俊さん曰く、昔は各家庭に「せんべいの焼き機(せんべいを焼く丸い型の鋳物)」があり、母親が家族のためにと焼いていたそう。砂鉄など良質な材料に恵まれた背景から鉄器づくりの歴史が深く、南部鉄器が日常にある岩手ならではの暮らしの風景だ。
畑仕事の時にお皿代わりにせんべいを持参し、昼食時に漬物や煮しめなどをのせて食べたり、農作業の合間のおやつとして麦芽水飴を塗って食べたり。また、祭りやお祝いともなれば、赤飯をのせる皿にもなる。湯気を吸ったせんべいは少しふんわりとやわらかくなって、それもまた美味しい。素朴なせんべいでありながら、ごはんとして、汁物の具として、おやつとして、おつまみとして、贈り物にと、この土地の人は本当によくせんべいを食べる。地元の商店にずらりと並ぶ量には圧倒される。
「せんべいにチーズをのせてピザのように食べたりするのが好きな若い人もいて、耳付き、耳なし(耳はせんべいを焼いたときに本来は型からはみ出してしまう部分)、耳だけ、みんな好みが違う。毎週のように買いに来るお客さんが『この店が無くなったらうちのおやつに困る』って言ってくれるから、まだまだ頑張らないと」
二戸には、藤原せんべい店のような小さなせんべい店がいくつかある。ひと言に「南部せんべい」と言っても、その味わいは、実にさまざま。おなじシンプルなせんべいでも、小麦の配合も違えば、味付けも違う。地元の人のおすすめもそれぞれ違い、あれこれ揃えて比べて食べてみたくなるほど。
秀俊さんが、どうぞ、と焼きたての一枚を渡してくれた。炭火ならではの香ばしさとずっしりと歯応えのある食感、噛むほどに広がる味わいには、ご夫婦が守りたい、素朴で懐かしい、いつか食べたあの時の「母の味」が詰まっている。